そこに空があるから
誰もいない恐竜やで、ひとり、テーブルを拭いている。
朝になればまた誰かがやることだ。だが、全く意味のないこととは思っていない。
それに――こうしていれば、昂ぶった気持ちが押さえられそうで。
「これで…いいかな」
つぶやいて、手の中で布巾をたたむ。
洗い流そうと振り向いた瞬間、アスカは自分を見据えていた一対の視線に気がついた。
その視線は、何故か自分を睨みつけているように見えて。
「幸人…さん…」
「夜中にひとりで何をごそごそやっている」
いつもどおり、両腕を組んで幸人がそこに立っていた。
少し下から向けられる視線には、いっそのこと容赦がない。
「すみません…起こしてしまいましたか?」
「うるさいと思うのなら、少しは時間を考えろ。今何時だと思っているんだ」
幸人は顎で時計を指し示す。表示されていた時刻は、普通の人間なら眠りについているものでしかなく。
「…すみません…」
先程よりも落ちた声と同時に、アスカは頭を下げた。
そんなアスカの前で、幸人の姿勢は何ら変わることがない。
「…寝られないのか」
「いえ」
「嘘をつくな」
言葉尻を奪われるように、幸人の声がアスカを遮った。
「寝られないから毎晩、ひとりでそうやっているんだろうが」
「・・・知って…たんですか…」
「でかい小動物がこっそり動こうとしても、嫌でも目につく」
「……」
笑おうとして、アスカは失敗したようだ。
すぐに大きな目を曇らせて、下を向く。
「…あんたはそうやって…下を向いてばかりだな」
「え…?」
「来い」
幸人はやおらアスカの手を握りしめた。そのまま有無を言わせぬ力で恐竜やから引っ張り出す。
「幸人さんっ?!」
「来い」
抵抗をする暇も与えられず、アスカは幸人とともに外に出る羽目になった。
少し雨混じりの天気だった所為か、深夜の空気はわずかに肌寒い。首筋を撫でてゆく風にアスカが肩を震わせる。
沈黙が、十数秒流れた。
「幸人…さん?」
「少し、上を見てみたらどうだ」
「え?」
「おまえ…暇があればよく馬鹿みたいに空を見ているだろう。今もそうしてみればいい」
「・・・」
手を握りしめたまま、幸人はアスカに言葉を投げつける。
再び降りた沈黙――アスカは、空に向けることなく、視線を真横の幸人に向けた。
「…どうした」
「どうして…そんなに私を気にかけてくださるんですか?」
「俺の安眠を確保する為だ」
その言葉に、ようやくアスカの口元に笑みが浮かぶ。
だがそれは、随分と淋しげなものでしかなくて。
「…すみません…今度から、恐竜やの中ではやらないことにします」
「なら何処へ行くつもりだ」
語気は荒くはない――だが、思わぬ強さを秘めた声に、アスカはそれ以上言葉を続けられなくなる。
「おまえがいるのは、此処だろうが」
「・・・はい…」
「何処に行くつもりだ…そう聞いているんだ、俺は」
「…すみま…」
「簡単に謝るな」
突き放すような声だったが、その裏には別の感情が見え隠れしていた。
生憎と、そういったものには鈍感なアスカには、すぐに気づくことは出来なかったけれど。
「そう何度も連呼されると、ほんとうに意味があるのか疑いたくなる」
「・・・」
また謝ろうとしたのだろう。一度開いた唇を閉じてから、アスカは逃げるようにして、墨を垂れ流したような空へと顔を上げた。
その顔が、ふいに表情を変える。
「……気づいたか」
「はい…あの、星が綺麗…ですね」
「随分と少ないがな」
アスカの目には、その数少ない星がはっきりと映し出されていた。
幸人が住んでいた函館から比べると、物足りないくらいの空ではあるが、アスカの顔を上に向けさせるのには充分だったようで。
「いつも下ばかり見てないで、たまには上も見ろ」
「…はい」
「おまえなら、他の人間よりも綺麗に見える筈だ」
「え?」
アスカの問いに、幸人はそれ以上答えようとしない。
代わりに、握りしめていた手に軽く力をこめた。
どのくらいそうしていただろう。
暗いだけの空には次第に明るみが差し、星は姿を消してゆく。
現れたのは、オレンジ色の輝きを放つ太陽だ。
「まぶしい…ですね…」
「おまえ、ちゃんと瞬きしてるのか?」
アスカがくすりと笑う。
笑顔ならいつでも見ているというのに、何故か初めて見るようなその表情に。
――瞬間、幸人は呼吸をするのも忘れてしまいそうになる。
「してます…大丈夫です」
「あまり瞬きすると、見えるモノも見えなくなるぞ」
「どっちなんですか…ほんとに」
また、アスカが笑う。
つられて、幸人も少しだけ唇の端を吊り上げて。
「たまには息を抜くことも覚えておくんだな」
「…え?」
「おまえはガチガチになり過ぎるんだ。転ぶことさえ拒んで、前へ前へと進もうとする」
「それは…」
わずかに曇ったアスカの表情。だが構わずに、幸人は口を閉ざそうともしない。
「たまに転んだってそんなのは一瞬だけだ。たいした時間もとらない、回り道でもない」
「幸人さん…」
「どうしても気になるなら…転ばないように足を止めて空を見るんだな」
「…気をつけます」
アスカの瞳に、口元を緩めた幸人の横顔が映る。
ともすれば吹きだしてしまう一歩手前のような顔に、アスカは首を傾げて。
「あの…幸人、さん?」
「――その方がいい」
「……」
高い位置にまで昇ってきた太陽が、幸人の横顔を照らす。
その眩しさに耐えながら、目を細めたアスカの体が傾いだ。幸人が手を引いた所為だ。
「…謝られるより感謝される方がいいな」
「え…」
軽く触れ合った唇。驚いたアスカが身を引こうとするのを、幸人の手が留める。
太陽の角度が、また変わった頃。幸人はようやくアスカの体を解放した。
「なんでそう…いつも唐突なんですか…」
「いちいち宣言する趣味はない」
もう一度触れてから、幸人はアスカの肩を押し、そしてまた手を離す。
まるで自分のもののように感じていた体温が離れていくのは、少しばかり淋しいものでもあったけれど。
「…忘れるなよ」
「え?」
「・・・なんでもない」
届いた言葉は、ほんとうはアスカの耳に届いていた。
けれど、幸人が聞こえてほしくなさそうにしていたからか、アスカも聞いていなかったふりをする。
「戻るぞ」
「…はい」
うれしそうに笑ったアスカに対して、幸人も無意識なのだろう、薄い笑みを浮かべていた。
たぶん、誰よりもアスカが綺麗な空を見ることが出来るだろう。
日々を、傷つくことも、傷つけられることもなく送っている人間に、空の美しさまでを感じ取ることは出来ない。
アスカだからこそ見える空というものがある。…それを、この目で見えることが出来ないのは、多少歯痒くはあるけれど。
それでも、少しは近い空を見ているのだと信じたい。
「結局徹夜だな」
「…つき合ってくださって、ありがとうございます」
言い回しの変わったアスカに、少しだけ驚いて。
それから、幸人は彼にしては珍しい程、顔を歪ませて笑う。
…なんてことだ。この馬鹿みたいに素直な竜人は、つい先程自分が言った言葉どおりに返してくる。
謝罪よりも、感謝の方がいい――いつものアスカだったなら、絶対にあそこで謝っていただろうに。
「あの、幸人さん…?」
「…いや?」
これだから…きっと、目が離せない。
もう、そんな感情だけではないことは、もしかしたら気がついているのかもしれないけれど。
「感謝してるんなら、今度添い寝でもしてもらうかな」
「・・・・」
「冗談だ」
たぶん、な。
そう続けた幸人に向けて、アスカは苦笑ともとれない笑みを浮かべてみせる。
そんなアスカに対して。
幸人は、心底から楽しげに笑ったのだった。
Fin
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Law breakerの和泉十希哉さまから頂いた素敵青黒小説です!!
和泉様は5月のスパコミにケラちゃん描かせてくださった方で、
その御礼にとこんな素敵な小説頂いてしまいました!!
(・・・御礼申し上げるのはむしろあたしのほうなのに…。(汗))
なんでも、うちの同人誌の「Dear wonderful〜」の
二人からインスパイアして下さった内容だそうで
それまた感激です!!
アスカちゃんには本当、上を向いて笑顔でいてほしいもんです。

そんでもって、挿絵…ってわけでなく、この小説読ませて頂いてなんとなく
イメージででてきた二人といいますか…。
ラストのアスカちゃんと一緒にいて心底、楽しげに笑った・・・っていう
カリスマがなんともツボでして…。
和泉様に捧げます、素敵な小説には足元も及びませんが。(涙)
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